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『雪中の狩人(The Hunters in the Snow)』

ピーテル・ブリューゲル Pieter Brueghel(1565年)

現在のオランダ・ベルギー、かつてのネーデルランドを舞台に活躍した、北方ルネサンス絵画の巨匠Pieter Brueghelの代表作です。農民ブリューゲルの異名を持つように、当時の農民の生活の様子を緻密に描写した作品群の一つで、歴史的な資料としても貴重なものとして知られています。中心となるのは、狩猟を終えて村近くまで帰還してきた狩人達です。背中の獲物は一匹だけと満足な収穫ではなく、雪中帰路を急ぐ姿にも疲労の影が窺え、ネーデルランドの冬の凛とした寒さが伝わってきます。そんな中、左に目を向けると勢いよく火をくべる女達がおり、前方の凍った池には、氷上で遊戯に興じる人々が視界に入り、無事にここまで辿りついた安堵感が狩人の心に宿った、そんな瞬間を壮大な構図の中にみごとに捉えた作品です。最奥には、雪に覆われた絶壁の続く山々を配し、狩人達の厳しい生活環境の演出に効果的背景となっています。当時ネーデルランドの多くの画家達は、イタリアルネッサンス絵画に憧れ、イタリアへ留学しました。Pieter Brueghelも同様にイタリアに修業の旅に出ましたが、彼に一番影響を与えたのは、イタリアルネッサンスの息吹ではなく、行き帰りの道中でみたアルプスの壮大な光景だったということは広く知られています。ネーデルランドには、もちろん高い山々はありません。「雪中の狩人」に描かれた風景はしたがって彼の架空の世界です。おそらく背景に自然が与えてくれた至極の芸術作品である壮大なアルプスを描くことで、それと対峙する人々に無言のエールを贈りたかったのだと想います。私たちの前で三色旗を振り続けてくれるようなものですね。

雪中の行動もこの絵画のように視界が開け、気持ちにゆとりがあれば、寒さも苦にならないかもしれませんが、明るい火も遠くの雪山も見えず、雪に閉ざされた環境では、不安が恐怖となり、寒さが気力を奪い、絶望感が心を支配することになります。明治35年1月23日陸軍第8師団第5連隊は、雪中行軍演習のため青森を出発しました。一泊二日で第二大隊長山口少佐以下210名の将兵は、青森から八甲田山腹を経て三本木(現十和田市)に至る予定でした。ところが、史上最悪とも言える過酷な気象状況で、猛烈な吹雪の中に一行は突入してしまい、八甲田山中で遭難、生還者17名、うち6名が入院中に死亡し、最終的に死者199名という日本山岳史上最大の遭難事件となりました。事の仔細は、映画化もされた新田次郎著作の小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社)でご存知の方も多いと思います。極限状態における危機管理の先頭に立ち、日々生存者が減っていく中、下士卒達を鼓舞し、彼らの心に灯火を燃やし続けたのは、神成文吉大尉(小説では神田大尉)でした。彼があてどない彷徨の果てについ呻いた一言「天は我を見放したか!」で下士卒達の心の灯火は消え、一気に気力をなくしたといわれています。また的確な状況判断ができず、勇気ある撤退でなく、無謀な強行突破に活路を求める選択を下した第二大隊長山口少佐は、遭難事件の責任をとりピストル自決したとされています。しかしながら、山口少佐は両手に重度の凍傷を負っていたとされ、とても自分でピストルを握ることなど、まして引き金を引くことなどできない状態だったようです。この第5連隊遭難事件に関しては、生存者の治療に当った軍医中原貞衛が「奥の吹雪」という著作を残し、その経緯を記録に留めています。この「奥の吹雪」を仔細に研究し、第5連隊遭難事件を医学的見地から検証されているのが、弘前大学麻酔科名誉教授の松木明知先生です。今月は、松木先生の山口少佐の死因に関する論考の一部 中原貞衛と「第五連隊惨事 奥の吹雪」(二)-山口少佐の死因をめぐって-」(日本医事新報 No4072 44-47,2002)を掲載させて頂きました。全4部のうちの第2部のみを掲載している関係で著者の真意が伝わりにくい所もあろうかと思います。興味を持たれた方は、論考の末尾に付け加えさせて頂いた文献を参考にしてください。