慶應義塾医学部新聞

医学部新聞の歴史

『新聞』名が、「医学部」とありながら同窓会で発行していることは他に類を見ない。これを紐解くために、石山和夫 前副会長(肺外,32回)および矢部 裕監事(新聞部OB,整形,36回)その他の三四会員を通じて歴史をたどってみた。

第2次大戦終了後4年あまり経った昭和24年3月に医学部新聞復刊第1号が発行された。これは、当時の内科医局長 小林文慶氏(新聞部,内科,17回,故人)が三鷹にあった塾医学部清規療に住む新聞部員を動員して発行されたものである。発行人が草間良男教授・新聞部長(衛生,後に第五代医学部長,故人)、編集人を小林文慶氏として、発行所は慶應大学医学部新聞部という学生新聞の形態をとったもので、医学部の指導・監督下にあった。経費は広告料のみをもって充て、塾大学病院からも広告料を得ていた。したがって当時は、本会とは公的には無関係であったのである。とはいえ、新聞部OB諸氏が新聞制作を指導していたことから、本会関係記事は多く、医学部・病院と本会とで記事をほぼ二分していたらしい。したがって、当時の制作スピリットより正確に命名すれば『医学部・三四会新聞』であったかもしれない。

一方、本会としては昭和32年に武見太郎会長(内科,日本医師会長兼務,8回,故人)が『三四会ニュース』を別途に発行した。編集責任者は二階堂達弥氏(医化,6回,故人)であった。

その後、昭和40年台半ばのいわゆる学園紛争時代に『新聞』の内容が左傾となったと判断した武見会長が、石山季彦氏(心外,24回,故人),土屋雅春氏(消内,32回,故人)、石山和夫氏らをご自宅に招かれ、「『新聞』は本会が中心になって発行すべし」という厳命が出された。当時、武見会長は日本医師会長として長年に渡って大活躍され、世間一般からは武見天皇と称されたほどであった。これ以降、『新聞』は現在のスタイルとなり、現在に至っている。学生団体の医学部新聞部は新聞研究会(現在、部長は竹内 勤教授,熱・寄,49回)となり、この間ずっと『新聞』編集の一部を担ってきた。

さて、これからどうするか?

これまでに新執行部として決まっているのは、集団体制での『新聞』発行である。これには従来どおり、学生諸君にも参画してもらう。当分、少なくとも2005年末までは休刊することなく、従来路線を走りながら、新路線を探求し、2006年の本会評議員会(総会)には新路線を提案したい。

これを具現化するには、強力な人材の適正配置が必要である。そこで本業務に最適と思われる坪田一男本会新理事(眼科教授,59回)を『新聞』の編集デスクに、前述の故土屋教授の愛弟子の一人である末松 誠新理事(医化教授,62回)に副デスクをお願いしたところ、ご両人とも超多忙にもかかわらず快諾していただき、すでに快走を始めている。

『新聞』が現在の路線をそのまま行くのであれば、その名称を既述のように『医学部・同窓会新聞』に改めたほうがよいかもしれないし、そうなると医学部・病院との一層の緊密化による『新聞』の共同制作となるべきであろう。その際は、医学部・病院からの十分な情報の提供はもちろんのこと、制作要員や予算の分担等を考える必要がある。医学部・病院との緊密化に関しては、本会では数年前から理事のうち一名に医学部・病院執行部役職者を迎えており、今回の新役員には先年改訂された医学部、病院体制にしたがって、それぞれから1名ずつの理事就任を要望している。また2002年2月以降休刊となっている『医学部・病院ニュース』とのバランスも考える必要がある。

平成17年12月
副会長 吉野肇一(44回、消外)

注:本会ないし医学部新聞のこれ以前は全く不明で、資料も見当たりません。情報をお持ちの方は、ぜひともご提供をお願いします。なお、本稿は平成17年7月号の慶應義塾医学部新聞に掲載された論壇を基に、ホームページ用に内容を一部書き換えました。