沿革

発足

1917年(大正6年)に開講した医学科では、予科3年間を三田で過ごした後、信濃町の本科に移っていたし、本科ではすべてを医学科だけで行動せざるをえなかった。そこで、医学科学生のまとまったものを作ろうとの意識ができて、大正8年の二学期に医科懇親会が発足し、会費を徴収して各団体に分配することになった。会則が決まったが、会名については議論の結果、一回生の田村 一の案の、三田と四谷を意味した三四会に決定された。

三四会の発会式が、1920年(大正9年)1月29日に三田の大食堂で、北里医学部長が出席して行われた。初代の会長には北里医学部長が就き、会員は学生が通常会員、医学部教授、助教授、講師が特別会員、卒業生、職員、研究生は終身会員とした。目的は、会員相互の交誼を厚くすること、心身の強健をはかることであった。総務部、文芸部、運動部の三部が置かれた。

活動

発足当初三四会の活動は学生の自治活動であり、総務部は一般会務、会計、消費組合事務等を、文芸部は「三四會誌」の編集・発行、弁論会の開催を、運動部は各種運動競技団体をまとめ、運動会を主催した。野球部、ボート部、軟式庭球部が古く、弓術部、陸上競技部が次いでいる。運動会は毎年行われ、最初は草原となっていたキャンパスの西北部を整備して運動場として使い、後に北里図書館裏の運動場が使われた。学生、医局員とその家族、看護婦が参加した。

戦中から戦後

1942年(昭和17年)、準戦力団体である学徒奉公隊(学友会)が結成されることになり、学生は三四会員から離れることになった。また卒業生が増えたこともあり、三四会は卒業生を中心とした団体に移行した。これに伴い、会長も北島多一学部長の引退を機に会員の中から選出することになった。また、慶應卒業以外で教室員となった者を、特別会員とすることになった。戦後は資金難であったが、7代会長の武見太郎(8回)の時に、再建策が成功し、会の運営の基盤が確立した。

三四会館

会員が増えたことと、塾生間の連絡と卒業生との連携を図るために、三四会館が設立された。1925年(大正14年)の三四会幹事会で食堂経営改善を目的に消費組合の設立が決定され、雑貨部と書籍部が作られた。三四会館は、組合の権利金と食堂部の収入等を資金として、総工費14000円で正門(北門)を入った南側に造られた。1926年(大正15年)7月8日に着工、同年9月15日に竣工した。建坪74坪7合5勺の木造二階建てで、1階には食堂、雑貨部、書籍部が、2階には会議室、図書室、三四会事務室、各倶楽部ルームが作られた。入口には内科講師であった草野宏次郎による額が飾られた。この額は現在も三四会で保存されている。建物は戦火を潜り抜けて残ったが、戦後は看護師宿舎から「学生ホール」として利用されていた。1990年に煉瓦館建設のために取壊された。

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三四会事務局は戦後北里図書館地下に移転していたが、図書館の施設拡充(フイルムライブラリー設立)のため移転を余儀なくされた。そこで北里図書館の南に、予算500万円で新たに三四会館が建設された。1965年(昭和40年)12月29日に地鎮祭を行い、翌1月より工事をはじめ、1966年(昭和41年)5月12日に落成式が行われた。総建坪144uで、1階には三四会事務室、慶應医学事務室、仁誠堂書店が、2階には会長室、会議室が設けられた。

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2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災を経て、三四会館の非耐震構造が問題となったこと、建物の老朽化と新病院棟建設が進む中で、近い将来取り壊しが想定されることから転居場所を医学部と協議した結果、2013年(平成25年)9月11日に現在の2号館11階(東側)に移転した。三四会事務室、会議室、ラウンジ・会長室を設け、慶應医師会と関連病院会も移転したが、関連病院会は事務機能を平成27年7月より国際医学情報センターに移行させた。

事業

広報紙の発行

「医学部新聞」は、戦後の1949年(昭和24年)3月10日に小林文慶(17回)によって創刊され、学生団体が発行していた。一方、武見太郎会長が三四会の広報紙として「三四会ニュース」を、二階堂達彌(6回)編集長のもと1957年(昭和32年)9月以来発行していた。「医学部新聞」が資金面で運営困難に陥ったため、1963年(昭和38年)9月に吸収合併し、武見会長が発行責任者の「医学部新聞」とした。編集長を堀内 光(18回)が務め、編集委員は三四会員と学生が当たった。

昭和40年代半ばの学園紛争時代に武見会長が記事内容を懸念し、三四会が中心となって発行すべきとして、医学部新聞部は新聞研究会と改め、各種行事や部活動など紙面の一部の取材・執筆を行うことになり、現在に至っている。平成30年1月号が795号となるので、初版以来ほぼ月刊新聞として定期発行されてきたことになる。

三四会賞

北里賞が1951年(昭和26年)から、北島賞が1958年(昭和33年)から設けられた。また、若手の研究奨励として三四会賞が1952年(昭和27年)に設けられたが、2000年(平成12年)より三四会奨励賞として基礎医学、臨床医学、地域活動・社会貢献または三四会活動等の3部門に分けられた。さらに2012年(平成24年)に、地域活動・社会貢献部門が三四会社会功労賞になった。

会員名簿の発行・頒布

会員名簿は、1933年(昭和8年)以降不定期に発行されてきたが、1999年(平成11年)以降3年ごとに発行されている。名簿の発行は、三四会活動の大きな柱の一つとなっている。

個人情報の悪用が社会問題となり、いわゆる個人情報保護法が2005年(平成17年)4月に施行されたことにより、各種の名簿作成が困難な時代背景となったため、名簿の発行を中止した同窓会が増えた。しかし、三四会では2005年(平成17年)の発行より個人情報保護に最大の注意をはかりながら、発行を継続している。また、古い名簿の回収・廃棄を、試行の後2017年度(平成29年度)より実施している。

会員

2018年(平成30年)現座、会員数は9000名を越している。その内慶應医学部卒業生が約6000名である。従来慶應卒業以外で教室員となった者の多くは慶應と関連があったので、ほとんどが三四会員(特別会員)となっていた。2005年(平成17年)より名称を「相当」へと変更してきた。2004年(平成16年)に初期研修医制度が始まると、初期研修医は教室に属さずに院長直属となったことや、出身大学とは関係のないマッチングによる研修施設の選択法の開始により、他大学卒業者の三四会への入会が激減した。さらに、慶應卒業者と同数近く採用している他大学卒業の専修医の入会も大きく落ち込んでいる。今後さらに新専門医制度の開始により、教室への帰属意識に変化が生じることも予想され、他大学卒業の医師に、慶應の仲間である社中としての理解をしてもらうことへの、対策が必要となっている。

地方支部

昭和37年度の事業計画として、全国規模で地方支部の設立が決定され、支部規約が制定された。支部の活性化を図るために、第1回全国支部長会議が2006年(平成18年)10月2日に明治記念館で開催され、24名の支部長が集まった。2018年(平成30年)1月現在、国内支部が76、海外が2存在して、78の支部を有している。横浜や川崎は会員数、総会への参加者数共に多く精力的な活動を行っている半面、会員数が少ない地域では休会となっている支部もある。

連合三田会大会

三四会は、連合三田会の諸会に属する一つである。連合三田会大会では長年救護部会を担当してきたが、業務内容から他学部との交流は疎遠であったため、2010年度から講演会を開催した。また、他学部とは卒業年次が2年ずれることから、2012年より救護部会担当学年は従来通りであるがイベント開催は入学時が同じ学年の担当とした。他に健康相談や小中学生を対象に手術手技を模擬体験できる「ブラックジャックセミナー」や「ドクターに挑戦コーナー」などを開催したり、赤倉山荘模擬店を出店し、妙高市のご当地キャラクター「ミョーコーさん」も参加している。

その他

日本医師会会長には、初代 北里柴三郎(1916年〜1931年)、2代 北島多一(1931年〜1943年)、11代 武見太郎(1957年〜1982年)、14代 村瀬敏郎(1992年〜1996年)の4名が就任している。比企能樹(37回)は、ボート競技でメルボルンオリンピック(1956年)日本代表として参加し、その後三四会長を務めた後、2013年(平成25年)5月に連合三田会会長に就任した。

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